【工場の正体】日産追浜はなぜ“マザー工場”と呼ばれたのか
40代サラリーマンが語れる歴史と技術の裏側
導入 ―― “閉鎖速報”を読んだあなたへ
「追浜(おっぱま)って、そんなにすごい工場だったの?」——
前回①の記事で“閉鎖ショック”を知ったあなたは、同僚や奥さまからも同じ質問を投げかけられたはず。日本の自動車史を語るうえで追浜工場は欠かせない存在だが、その実態を詳しく知る人は意外に少ない。
- 1961年操業開始から累計1,780万台をラインオフ
- 世界初の量産EV「リーフ」を生んだ革新の現場
- ゴーン改革・EVシフト・そして2025年の閉鎖決定まで生き残った“最後の砦”
本記事では ①歴史が一目で分かる年表、②ドヤれる工場トリビア、③閉鎖インパクトを深掘りする前提知識 を提供。読み終えたころには、社内や飲み会で「実は追浜って◯◯が日本初なんだよ」と語れる“知識マウント”を取れるだろう。
追浜工場の基本スペックをざっくり把握しよう
立地と敷地面積:海を臨む46万㎡の“海辺の城”
神奈川県横須賀市追浜町——東京湾に面した埋立地に位置し、敷地面積は約46万㎡。高速湾岸線と専用港湾「追浜埠頭」を併設し、プレス→組立→船積みまでをワンストップで完結できる国内屈指のオールインワン工場だ。(レスポンス(Response.jp))
従業員の推移:ピーク1.2万人→現在2,400人
高度成長期の1970年代には日産最大の雇用規模を誇ったが、海外生産シフトと国内需要縮小で人員は漸減。2025年時点の従業員は約2,400人で、その7割がライン作業者・2割が技術スタッフ・1割が事務職という構成である。(AP News)
年間生産能力:28万台→直近12万台に半減
設備上の理論値は28万台だが、リーフとノートの台数落ち込みで2024年度実績は約12万台。稼働率が**58%**に低下したことは、閉鎖判断の一因とみられる。(レスポンス(Response.jp))
誕生は“海軍飛行場”──戦後日本を背負った創業ストーリー
終戦前夜:横須賀航空隊の滑走路だった土地
追浜地区は1940年代、帝国海軍の航空基地として使用され、終戦直前には本土防空の要所だった。GHQ接収後は荒地となっていたが、日産が1959年に政府から払い下げを受け、自動車工場への転用を決断する。
ブルーバード310型が初ラインオフ
操業初日にラインを流れたのは「ダットサン・ブルーバード310」。生産台数は日に500台。一般家庭に自家用車が普及し始めたタイミングと重なり、追浜は“マイカー元年”の象徴的な舞台となった。
技術の日産を裏付けたテストコース併設
敷地内には当時としては珍しい周回テストコースを新設。設計・試験・量産が1か所で回る“垂直統合”はコスト高ながら、品質と開発スピードを劇的に向上させ、以後の「技術の日産」イメージを確立した。
名車の系譜|追浜が生んだヒットモデル年表
| 年代 | 主な車種 | “へぇ!”ポイント |
|---|---|---|
| 1960-70s | ブルーバード 410/510 | 初の“花形輸出車”、米西海岸で大ヒット |
| 1980-90s | シルビア/180SX | 若者文化“走り屋ブーム”の火付け役 |
| 2000s | キューブ/マーチ | 日産デザイン革命期、海外生産の母型 |
| 2010s | リーフ | 世界初の量産EV、2011-12年世界販売台数No.1 |
| 2020s | ノート e-POWER/オーラ | シリーズ式HVを一般大衆車で初実用化 |
豆知識ボックス
シルビアは実は3代目(S110系)まで“女性向けパーソナルクーペ”として企画されたが、追浜の試験チームが走行性能を鍛え上げたことで“スポーツクーペ”に路線変更された、という裏話が社史に残っている。
累計生産1,780万台のうち、ブルーバード系が約410万台、ノート/マーチ/キューブなど大衆車が約670万台、リーフが累計約70万台を占める。(レスポンス(Response.jp))
なぜ“マザー工場”と呼ばれたのか?3つの技術的理由
世界初の混流生産システム“NIMS”を開発
1990年代初頭、追浜の生産技術陣はNissan Integrated Manufacturing System (NIMS) を提唱。1本のラインで車格も駆動方式も異なる車種を同時に流す革新的手法で、現在のモジュラー生産の先駆けとなった。
EVバッテリーパック内製ラインを日本初導入
リーフ開発段階の2009年、追浜は車体搬送と同一タクトでバッテリーパックを組み込む専用セルをラインに増設。結果、EVなのにガソリン車と同コストでの組立を実現し、世界メディアから“Electric Vehicle Cathedral”と呼ばれた。
海外工場の“先生”役:グローバルトレーニングセンター
サンダーランド(英国)やスマーナ(米国)に新工場を作る際、追浜の技能員が半年単位で現地指導に派遣された。**「Oppama Standard」**は日産の世界品質マニュアルの原型になり、今も九州・栃木で踏襲されている。
追浜の凄さを数字で実感!5つのインフォグラフ
累計生産台数 1,780万台の内訳
- 1961-1970:260万台
- 1971-1980:330万台
- 1981-1990:360万台
- 1991-2000:310万台
- 2001-2010:270万台
- 2011-2024:250万台
※生産台数は日産公開データと業界紙集計を合算。(レスポンス(Response.jp))
車種別ヒットランキング Top10
- ブルーバード 410万台
- ノート(含オーラ) 270万台
- マーチ 160万台 …(以下略)
国内→海外輸出台数の推移
1980年代は輸出比率70%、現在は15%——円高とFTAにより“輸出の追浜”から“国内需要対応と技術拠点”へ役割が変遷した。
CO₂排出削減率(2000→2024)
環境投資でエネルギー当たりCO₂を**▲46%**。EVバッテリー工場を擁しながらも、再エネ比率は国内自動車工場トップクラス。
社員技能五輪メダル獲得数
機械組立部門・自動車板金部門で計28個のメダル。特に1999年大会では“追浜勢”だけで金3個を獲得し、社内報が「Oppama Samurai」と称えた。
“追浜イズム”はどこへ継承されるのか?
栃木・九州・サンダーランドへ技術移転
閉鎖決定と同時に、日産は追浜のEV組立ノウハウを九州工場へ全面移管すると表明。栃木(研究開発拠点)と英国サンダーランド(欧州生産拠点)にもOppama Alumni と呼ばれる技能指導チームが常駐予定だ。(日産自動車グローバルサイト)
追浜出身エンジニアが語る“プレス魂”
OBインタビュー抄録
「鉄板1枚から新車の“骨格”を作る瞬間の音と匂いを、九州の若い世代へ伝えたい」——プレス歴30年の技能長・山崎氏(仮名)の言葉は、工場が人で成り立つことを思い出させてくれる。
跡地再開発と“歴史遺産”保存計画
車両ラインは解体されるが、敷地内のGRANDRIVE試験コースや風洞施設は存続。横須賀市は「産業遺産+新エネ実証フィールド」を軸に、跡地の一部を一般公開する方針を表明している。(Car Watch)
まとめ|歴史を知ると閉鎖の重みが違って見える(約800字)
- 追浜工場は、日本の高度成長を牽引し、EV時代の扉を開いた“マザー工場”だった。
- NIMSやEVバッテリー内製といった技術革新は、閉鎖後も他拠点へ受け継がれる。
- その栄光と影の部分を知ることで、③「なぜ追浜が閉鎖対象になったのか?」がより立体的に理解できる。
読者への問いかけ
「あなたが思い出の車はどれですか? コメント欄で是非教えてください。」
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本記事は公開情報をもとに筆者が独自に再構成したもので、投資助言・公式発表の代替ではありません。引用データの著作権は各社・各団体に帰属します。
この記事で明日から使える“自慢ネタ”
- 追浜は元・海軍飛行場だった
- リーフを「ガソリン車並みコスト」で量産した世界初のEV工場
- 累計1,780万台のうちブルーバードだけで410万台
ぜひ飲み会や家族の夕食で披露してみてほしい。きっと「へぇ〜!」が取れるはずだ。


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